とある人間の、一生の監視を命じられた。ただ、それだけの事だった。 しかしそれでも、私にとっては初の仕事。 緊張しながら見た、最初の光景は。 新たな命を抱え、あたふたする産婆。 何やらぶつぶつと祈るように天を仰ぐ父親。 絶叫する半狂乱状態の母親と。 そして、赤い十字架を胸に刻んだ、産まれたばかりの女の赤ん坊。 何かの錯覚ではないかと、そのときは思った。 女の子には、食事も与えられた。服も着せられた。名前もつけられた。 しかし、それだけ。そこには温度などと言うものは感じられなかった。 そこそこの富豪らしく、両親は娘の世話の全てを使用人たちに押し付け、ひと目でも見ようとはしなかった。 使用人たちもまた、最低限というにもおこがましい世話の仕方で、それ以外では近づこうともしない。 まるで、獣を飼っているかのような扱い。いや、彼らにとってはそれ以上に恐ろしく、忌むべき存在なのだろう。 食事は、作法を知らない彼女にとってはとても食べづらく、すぐに冷めてしまう。 服は、朝に一度着付けられたら、汚れても替えられることはない。 せっかくの名前も、呼ばれる事すらない。 そんな毎日が、女の子の日常だった。 今日も、一人で屋敷の正門側の庭を一人でぶらつく女の子。 屋敷の外に出た事は一度も無いが、屋敷の中では比較的自由に歩き回る事ができるのは、親としてのせめてもの情けだったと私は思いたい。 適当にぶらついていたと思ったら、いきなりその場に屈みこんだ。 何か体に異変が起こったのだろうかと思ったけど、そうではなく、何かを見つけたらしい。 小さな手のひらに載せられたものは、一匹の虫だった。 初めて見るのか、とても興味深そうに見つめている。 見かけたメイドに駈け寄って、手のひらをさしだした。 「これ、なぁに?」 「はい?・・・ひっ、近寄らないでぇっ!!」 「?」 「それを近づけないで、あなたも近寄らないで!!」 そう叫ぶと、メイドは走り去っていった。 きょとんとした顔でその背中を見つめる女の子。 傷いたのだろうか? しかし憶測とは裏腹に、女の子は笑った。確かに、笑った。 その笑顔で私は気がついた。 いまの言葉は明らかに「彼女に向けて」発せられた言葉だった。 私が見ていたなかでは、恐らく初めての。 女の子はそれからというもの、毎日のように虫や小動物で悪戯をした。そのたびに、人が女の子に対して反応を示した。 普段は自分のことを存在していないもののように扱う人達が、自分に対して反応をするようになった。 そしてその度に、父親が・母親が・仕様人たちが、自分の目の前で自分を叱る。罵る。でも、存在が認められているのだ。 きっとその事が嬉しくて、女の子は悪戯を続けているのだろう。 でも、これではいけない。 ―――止めさせないと。 何度となくそう思った。でも、私に与えられたのは「監視」だけ。干渉する事は許されない。 構ってもらおうと必死になり、騒動を起こす女の子が痛々しく。 何も出来ず、見ている事しか出来ない自分がもどかしい。 このままでは取り返しがつかないことになってしまう。 そして、しばらくしたある日。 女の子は、父に連れられ、屋敷の中腹にある、大きな扉の前に来た。 きっと初めての事だったのだろう。父親とこうして歩くのは。女の子ははにかみながらも嬉しそうに歩いていた。 「おまえに、プレゼントをあげよう」 父親の、いつにない優しい言葉。 きっと、自分の思いが通じたんだ。そう思ったに違いない。女の子は今までに見た事が無い、満面の笑みを浮かべた。 扉が開かれる。 「さあ、中へお入り」 その言葉に、元気良く返事をして中へ入る。 女の子が扉の中へ入っていく瞬間、背筋に冷たいものが走った。 ―――入ってはいけない!! その声も、届くはずがなく。 向こう側へ、行ってしまった。 目の前には窓があり、左右に通路が伸びていた。窓から外を見ようと、背伸びをする。 窓から見えたのは、とても噴水付きの綺麗で広い中庭。女の子はその景色に釘付けになっていた。 「そこはね、おまえだけの世界なんだよ」 扉が、閉じられていく。 「あたしだけの?」 「そう。おまえは今日からそこで過ごすんだ」 その言葉は凄味を増していく。 「え?」 振りかえった時には、もう扉は閉まる寸前で。 『この、悪魔め』 吐き捨てるような言葉と共に、扉は完全に閉められた。そして、施錠の音。 ただ一人取り残された女の子は、ただ扉を見つめるだけだった。 笑顔を凍りつかせたままで。 あれから、女の子は笑わなくなった。 高い塀と屋敷の壁に囲まれた、女の子の「世界」。 そこは、まだ幼い彼女には広いかもしれないが、そこで生涯を過ごすにはあまりにも狭い世界。 その世界には、使用人も数人いた。しかし、ひと月ともたずに皆いなくなった。 入れ替わりで新しい使用人が入っても同じ事。 彼女が追い出していたのだった。いつもやっていた悪戯で。 でも、その悪戯をする女の子の顔には、今までの、自分の存在を認めてくれるであろうという、期待に満ちた笑顔は無かった。 浮かべるのは、人形のように冷たい表情。 あまりにも哀しい、彼女の「世界」。 もう、私は我慢できない。 見ているだけなんて辛すぎる。 だから。 降りよう。あの女の子に会うために。 こうして、私は女の子の住む「世界」に降りた。 降りたのは良かったのですけど。 その際に少し失敗して、植木に頭を突っ込んでしまって身動きが取れないのは秘密。 じたばたともがいては見るが、事は進展せず。 数分ほどそうしていると、いきなり誰かが私の胴を掴んで植木から勢い良く私を引っこ抜いた。 そのまま持ちげた人は、私を自分と対面するように持つ手を変える。 あの女の子だった。 「ナニコイツ・・・。耳が垂れた・・・黒兎?」 私を持ち上げ、まじまじと見つめる女の子。 「ふう、助かりました・・・ありがとうございます」 助けられて気が緩んだのか、つい口を滑らせて言葉を喋ってしまう私。 「なんだ、喋れるんだ。」 「ええ、ま・まぁ・・・」 「兎って喋るんだね、初めて知った」 うろたえ気味な私を他所に、言葉を喋ったことに対して特に驚いた様子も無く淡々と話す女の子。 まだ歳が十になるまでには何年かあるはずなのに、口調はしっかりとしていた。 でもその言葉には感情の暖かさが感じられない。 「いや、普通は喋らないんですけど」 「ふうん?・・・まあ、どこから入ってきたのかは知らないけど、これで帰れるでしょ」 女の子は私をそっと降ろすと、踵を返した。 「アタシ、これからいらない人間を追っ払わないといけないから、もう行くわ」 スタスタと歩いていく女の子。 ―――止めなくては。 今の私なら、それができるはず。もう見ているだけではないのだから。 「あの、実は・・・」 「ん、何?まだなにかあるの」 立ち止まり、向き直る女の子。 まずは直接的に止めさせるような発言ではなくて、気をそらせるようにした方が良いだろう。 「実は私、帰るところが無いのですよ」 嘘ではない。命に背いた私は、もう帰る場所は無い。だから。 「もし宜しければ、ココにおいて貰えないでしょうか?」 女の子の目が、少しだけ見開かれた。動揺したのだろうか。ここに居たいというは、彼女と一緒に居たいという事にも繋がるから。 しばしの沈黙。 やがて、ぽつりと呟くように。 「言っておくけど、ここには誰もいないわよ」 「あなたがいるじゃないですか」 「アタシといたって面白くないわ」 「いえ、きっと楽しいですよ」 「・・・奇特なのね」 「よく言われます」 その言葉に、一寸おどけて言い返す私。 また沈黙。 ふ・と、少しだけ、ほんの少しだけ、彼女の口元が緩んだ。 笑・・・った? 「いいわ。置いたげる」 「あ・・・ありがとうございます」 「それじゃ、どうしようか。ここの案内でもする?狭いけど」 「ええ、是非」 「わかったわ。じゃあ、行くよ」 そういうと、私を抱き上げて歩き出す。 女の子に抱かれて揺られながら、私は再度決心を固めた。 今すぐは無理だけれども。 いつかきっと。 この子にちゃんとした笑顔を取り戻してあげようと。 そして、その取り戻した笑顔を。 私は、絶対に。 裏切らないと。